2015年8月29日土曜日

「戦場体験者無言の記録」 日本軍の非行

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 第2次大戦の日本軍に残虐非道の行為がかなりあった(らしい)
  ことを知っていただきます。
 中国に対してそのことは謝罪しなければならないことを
  認識していただきます。
 戦争はいかに人を狂わせるかを考えていただきます。
 なぜ、そんなことが起きたのかを考えていただきます。 

ねらい:
 それぞれで考えていただきます。
 戦時の「事実」にご関心ある方は「戦場体験無言の記録」
  をお読みください。

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これは著者保坂正康氏が、
執念で長年の調査・情報収集を行った結果の報告です。
たいへん貴重な記録です。

日本軍の残虐非行もかなりのものだったということが分かります。

本書にこういう記載がありました。

 中国語が堪能なため中国戦線に送られたのだが、
 そこで鵜野(中尉)に与えられた役割は捕虜の中から共産党員
 あるいは共産党シンパを見つけて、
 その捕虜を「始末」することだったのである。

 「始末」の意味は、曖昧な表現であるが、
 ほとんどの場合「殺害せよ」と同義語であった。
 鵜野はその職務に忠実であった。

 彼は私への直話の中で、
 自分は28人の捕虜の処刑を行ったと語った。
 
 「自分でですか」という問いに、
 「そうだ。誰かがやらなければならないことだった」
 と鵜野は告白し、そのうえで
 「日本刀で惨殺するということだー――」と言って、
 その処刑の内容を詳細に語った。
 
 その様相があまりにも残酷なので、
 私は嘔吐しそうになったほどだ。

以下は鵜野氏の著書「菊と日本刀」(1985年)からの引用です。
記述内容は、
1956年の中国の特別軍事法廷における裁判での状況です。

 9人の農民が、
 ある人は泣いて助命を乞い、
 ある人は敢然と涙とともに抗日歌を歌い、
 またある人は激怒して大声で抗議するのを、
 1人ずつ斬首していった情況。
 
 それに刀の目釘が何度もゆるみ。
 また刀身が曲がったのを血のりを拭きながら
 1人斬首するごとに布を巻いて直しながらの斬首過程を陳述するなかで、
 言葉につまり、とめどなく流れだす涙をぬぐいながらの陳述は、
 障害忘れ得ぬ苦しさであった。


また別の個所にこういう記述もありました。

「日中友好元軍人の会」の事務局長を務めていた
永井洋二郎氏の著者に対する証言として記載されているものです。

 会員のある将校が自分たちの部隊が行った行為について
 永井氏に告白したという。

 「いわゆる南京虐殺にかかわった部隊の将校は、
 こうした記憶を幾つも自らの中に抱えているという意味での
 重要な証言なのです。

 倉庫の中に中国人を大勢詰めこんで、
 そこから何人かずつ引きだして揚子江の前に並べて
 機関銃で次々に殺害したのです。

 むろんここには兵士だけではなく、
 一般市民もいたわけですが、
 何隻かの船のスクリューを早くして川の流れを強くしていたので、
 死体は次々に川に流れていきます。

 それを終日続けた。
 死体は揚子江から海に流れていったことにより、
 その数は正確には分かりません。
 
 こういうケースは伏せられています。
 なぜなら当事者が口にしないからですが、
 その分だけ彼ら兵士、将校の中には
 戦後になってもその記憶から抜け出ることができずに
 苦しんでいる者がいるのです。

日中友好元軍人の会(現在は日中友好八・一五の会と称している)
については、
代表幹事の沖松信夫氏(元職業軍人)が
その会報340号(1998年3月号)で以下のように述べています。

 日中友好元軍人の会は、1961年に設立された。
 当時この名称は、会の性格を表すユニークなものだった。

 第一、日中友好運動は、
 当時日本政府の認めようとしない運動であり、
 右翼団体からは非国民・売国奴の集団として非難された時代である。

 第二に、当時は元軍人の敗戦責任を問う声も少なからず、
 一般的には元軍人を名乗ることが憚られた時代である。

 その時代にあえて過去の侵略戦争を反省し
 軍備を否定する元軍人の団体であることを表明することは、
 二重に勇気を要する行為だった。

 日中友好と元軍人の語を組み合わせた会名は、
 当時としてはその性格を極めて鮮明にしたものであった。
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そんなひどいことがよくできたものだという衝撃的な内容です。
残虐行為をした多数の当事者からの聞き取り等
に基づいていますので、これは真実だろうと思われます。

ただ、韓国女性の人狩りをして慰安婦にした、
という吉田清治の自白懺悔がまったくの虚構だった
という例もありますので、
真実であるという断定はできませんがーーー

ですが、真実とするとなぜそんなひどいことができるのか、
という疑問が湧きます。

戦闘の場では食うか食われるかですから、
敵を倒すのは自然な本能に基づく行為です。

しかし、民間人を虐殺暴行することは、
戦時においても違反行為です。

民間人の虐殺では、
最も有名なのがナチスのユダヤ人虐殺です。

イスラムのテロも民間人が対象になっています。

戦争ではありませんが、
オーム真理教のサリン事件も無差別殺人です。

こうして見ると、
このような非人道行為の背景にあるのは、
宗教またはそれに準じた価値観です。

日本軍の場合は、宗教ではありませんが、
ある意味の「神がかり」です。

特攻隊の戦士は「お国のため」と言って死んでいったのです。
上官の指示だから従うのではなく、
抽象化された「お国」(神様)の命だったのです。

宗教に対する信仰はすべての価値観に勝るということです。

洗脳という言葉があります。
他の価値観をサッパリ洗い流してしまい、
新たな価値観を埋め込まれるという意味なのです。

人道も倫理も道徳もなくなってしまいます。

別項でご紹介した「ドイツ帝国が世界を破滅させる」の
エマニュエル・トッド氏の分析だと、
ドイツと日本は(個人主義ではなく)集団主義的で
上の言うことを素直に聞く(お上(かみ)に従う)傾向がある
と言います。

その面でも上の命令は絶対で、
そこに個人の判断は入りにくい、ということがあるのでしょう。
(私は日本軍の残虐非道を弁護するというつもりはありませんが)

また別項「シベリア抑留記『生きて帰って来た男』」でご紹介した

熊英二さんはこう言っていました。

 第2次大戦でドイツ軍の捕虜になったソ連軍の将兵570万人中 

 前線での虐殺や悪待遇で200万人~300万人が死亡

 死亡率6割  ドイツ最悪!!

 ソ連軍の捕虜になったドイツ軍の将兵330万人中
 死亡者は100万人で死亡率は約3割

 日本軍の捕虜になった英米軍の死亡率は27%、
 (日本軍もそんなに悪いのか!)

日本軍の非道さは、
日本で極悪の典型のような見方をしているソ連と同じです。
やはり日本軍はかなりのワルなのです。

それにしても、
日本軍がそんなに非道であったのなら
やはり真剣に謝罪しなければなりません。


ところですべての特攻隊員が
進んでお国のために命を捧げたのではないようです。

「きけわだつみのこえ」に収録されている以下の文章に
著者も大きな感激を受けています。
22歳の大学生の遺言の最後の部分です。
 
 明日は自由主義者の一人この世から去っていきます。
 彼の後姿は淋しいですが、
 心中満足で一杯です。
 
 云いたい事を云いたいだけ云いました。
 無礼を御許し下さい。
 ではこの辺で。
 出撃の前夜記す。

こういう記事もありました。

特攻機のパイロット席の無線は常時オンになっていて、
管制官側は状況を把握していました。
そうすると、「天皇陛下万歳」とかだけでなく
「海軍の馬鹿野郎」などの言もあった。


ところで、
第2次大戦の米軍の都市空襲・原爆投下も無差別殺人です。
これは宗教のせいではないでしょう。

ではなんでしょうか。
私のみるところでは目的思考でしょうね。

「これ以上米国民の戦死者を出したくない」
「早く日本の影響力を地球から抹殺したい」
「それには手段を選ばない」
という思考です。

米国流の目的思考は、まさに
「目的のためには手段を選ばない」のです。

人間が「おかしくなる」原因は、
「おかしな」宗教か「おかしな」価値観なのです。

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本書は以下のような章立てになっています。

著者が伝えたいのは、こういうことです。

 戦争がいかに残酷で厳しいものであるか
  これを現代・後世に伝えよう。

 戦争体験をした者は戦争体験を語りたがらない
  戦後、戦争が全面否定された。肩身が狭い
  苦しい厭な思い出である
 
 そのため、戦争体験者は厭な思い出を自らに抱え込んで
 苦悩している
  その人たちに対する社会的ケアがされていない。
  冷たい日本社会である。

第1章 「きけわだつみのこえ」と戦後社会

第2章 日中戦争の実態を伝える

第3章 元戦犯たちの苦悩

第4章 軍隊と性の病理

第5章 衛生兵のみた南方戦線

第6章 個人が残した記録
     フィリピンでの憲兵隊の島民虐殺事件も記されています。

補章  兵士の戦場体験をいかに聞くか

私は、非常に「厳しい」内容なので、
暗澹とした気持になり途中で読むのをやめました。

ところで、
前掲の1956年の中国の特別軍事法廷における裁判の結果は、
被告は自ら全員死刑を覚悟していたのですが、
何と最高刑でも禁固20年(禁固年限には終戦からの期間を含む)
の温情判決でした。

それは、
当時の国家主席側(毛沢東、周恩来)の「配慮」だったようです。
これはビックリの新事実でした。

「死刑ではなく有期刑にして日本に送り返せ、
その上で、日中友好に貢献してもらえ」

凄い戦略的思考ですね。
今の日中関係を考えると彼我の差がありすぎです。
戸惑いを禁じ得ません。





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