2015年7月8日水曜日

こんなむごい!!非人道の原爆投下!

【このテーマの目的・ねらい】
目的:
 原爆がどれだけ悲惨なものかを再確認していただきます。
 悲しい物語を心に留めていただきます。
 その人たちのご冥福を祈りましょう。
 平和ボケを少し反省しましょう!!

ねらい:
 この本を読んでみられますか?
 戦争反対はともかくとして、原爆反対は貫きましょう!!

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タイトルの非人道という言葉は、
非人道的を超えて、
本当に人間の道に反するということで使っています。

奥田貞子さんが書かれた「空が、赤く、焼けて」
のご紹介です。



奥田さんは31歳の時に、原爆投下直後の広島を訪ねて
本当に痛ましい体験をされました。
この本は、その時の日記が基になっています。

この本をこうして私たちが読めるのは奇跡に近いのです。
おそらく、これだけの原爆被害見聞録は他にないでしょうね。

1.健康で元気な状態で、原爆投下直後に広島を訪れたこと
 奥田さんは当時、
 広島から60キロほど離れた瀬戸内海の島に住んでいました。
 親しくしていた甥と姪を探しに広島に入りました。
 広島で難を逃れた叔父の家に泊まり
 8日間原爆の町を探し回りました。

2.奥田さんが丁寧に日記を書いていらしたこと。
 見聞した内容を書きとめるという習慣がおありだったのですね。

3.原爆症にならずに生き延びられたこと
 広島で被爆しなくても 
 直後に被爆地に入った人も原爆症になっています。
 奥田さんが原爆症にならずにすんだのは、
 泊っていた叔父が薬局を営んでいて、
 奥田さんに元気をつけるために毎日ビタミンCなどの注射をしました。
 
 奥田さんは、この注射のおかげで
 原爆症にならずにすんだのではないかと書いておられます。

 奥田さんは96歳まで生を全うされました。

4.この日記を捨てなかったこと
 奥田さんが書いておられますが、
 あまりにも痛ましいこのことを忘れたくて、
 何度もこの日記を捨てようと思ったようです。

5.34年を経た時に、初版「ほのぐらい灯心を消すことなく」
 を出されたこと
 
 「戦争を知らない若い人に、
 1人でも多くの人に戦争とはいかに無残なものか知ってほしい」
 という思いからでした。

 奥田さんは、戦後山形県の基督教独立学園高等学校の先生でした。
 生徒たちに原爆体験を話したことがきっかけになり
 父兄の方の尽力で冊子として出版されました。

6.「空が、赤く、焼けて」が出版されたこと
 2011年、
 学園の方々が最後を迎える奥田さんのために同書を蘇らせようと
 第4版が作られました。
 その第4版を基に、小学館がこの本を刊行したのです。

これだけのことがあって、
今私たちは、本当に痛ましい「現場」を知ることができるのです。

本書にはいくつもの悲惨な子どもたちの最後が描かれています。
私が最も心にこたえた1編の抜粋を以下にご紹介します。
奥田さんが8日後に島に戻ってからの話です。

なお、奥田さんが探していた甥と姪は、
たまたま原爆投下時、広島市内を離れていて無事でした。
2人は、甥と姪の家の焼け跡においた奥田さんのメモを見て
奥田さんが逗留していた叔父の家にやってきて再会できたのです。

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ルミちゃん一家は、終戦の前の年の寒い日に、
都会からここ、瀬戸内海のミカン畑に囲まれた村に疎開して来た。
いつもはとっても平和な村だったのに、
ルミちゃんが来た頃はこの村も大変だった。

特に疎開してきた人は、この村になじめなかったようだった。

ルミちゃんのお父さんとお母さんは、
8月5日の朝早く、お船で広島に出かけた。
「ルミ、お利口にしてるんだよ。
一つだけ泊ったら帰って来るからネ」

翌日も、その次の日も、またその次の日も、
ルミちゃんのお父さんとお母さんは帰って来なかった。

それで、ルミちゃんの叔父さんは、
ルミちゃんを連れて広島に探しに行き、
4日間、ルミちゃんをおんぶして歩き回ったけれど会えなかった。
2人は疲れ果てて島に帰って来た。

3歳のルミちゃんは毎日毎日お船の見える浜辺に出て、
お父さん、お母さんを待ち続けた。
1人ポツンと浜の石に腰かけて海をながめているルミちゃんを見ると、
かわいそうで、かわいそうで、私はいつも一緒に泣いてしまった。

「ルミちゃん、こんにちは」と私が声をかけると、
ルミちゃんは黙ったままふり返り、
「一つだけ泊ったら帰って来るって言ったのに」
とポツンと言う。

あとは私が何を言っても、口を開こうとはしなかった。

雨の日は、破れた小さなかさを両手でしっかり持って、
風の日は、手ぬぐいで頬かむりをしてもらって、
相変わらずルミちゃんは遠くの海をながめては、
ため息をついていた。

私が小さな座布団を持って行って、
「ルミちゃん、この上に腰かけたら」
と言っても見向きもしないで、
一つだけ泊まったら帰って来るといったのに、
と寂しそうにつぶやくばかり。

いつも夕方になると、叔父さんが、
「さあルミ帰ろう、ルミはまだここにいたのか」
と言って肩車にのせて連れて帰る。
それまでは、誰が何といっても、
一歩も動こうとはしなかった。

黄色いリボンをつけ、
カスリのモンペをはいたかわいいルミちゃん。
かわいそうに、
来る日も来る日も浜に出てお船を待っていた。


広島から帰って三、四日たった朝、
ルミちゃんはリボンを手に持って、お帽子をかぶっていた。

私が、
「あーら、ルミちゃん、今日はお帽子なの。かわいいお帽子ネ」
と言ってルミちゃんの隣に座って顔をのぞいたら、
ルミちゃんは、黙ってそーっと帽子をぬいで私の方に向いた。

アッ! いつの間に、こんなあわれな頭になったのだろう。
黒かったルミちゃんの髪が抜けて、やわらかい白い肌が出ている。
あまりの不気味さに、私は思わず、「マアー」と、声が出た。

しばらくたってルミちゃんは言った。

「ルミの髪が病気になったから、今日からリボンやめて、
お帽子かぶりなさい、って叔父ちゃんが言ったの。
だから、リボンは手に持ってるの。
ルミのお母さんが作ってくれたんだもの。
ルミ、このおリボン大好きだもん」

と悲しそうな顔で私の方を見た。

「そう、髪がよくなったら、私がもう一つリボン作ってあげる。
そして、二つつけると、
お人形さんのようなルミちゃんになるわ。
たくさん、たくさん、ごはん食べないと、よくならないのよ」

私がそう言うと、
にっこり笑って、「ハイ」といいお返事だったが、
また海の方をながめて
「一つだけ泊まったら帰って来るって言ったのに」
と、涙をうかべて訴える。

ああ、こんなにも、
「一つだけ泊まったら」って待っているのに、
ルミちゃんのお父さんお母さんは
どうして帰って来ないのだろうと、
私もついうらみごとを言ってしまう。

(中略)

ルミちゃんは、
あのいたいたしい姿で、来る日も来る日も
浜に出て、一人ポツンと、何時間も海をながめて、
お父さんお母さんを待つ日が四、五日続いた。

お昼休みに私は浜に出て、「ルミちゃん元気?」
と声をかけた。

相変わらず黙って私の顔をしばらく見つめ、
涙をためた寂しい声で、
また
「一つだけ泊まったら帰って来ると言ったのに」。

それだけ言うと海を見る。

私がどんなに話をしても聞いてはくれない。

ああ、この三歳の子どもにどのように言えばよいのか。
私もルミちゃんと同じように泣くしかない。

ルミちゃんの叔父さんは、私にこうおっしゃった。

「ルミの親たちがだめかもしれないということを、
どうルミに言えばよいのか。
いくら言っても、ルミには理解できないだろうしーーーー。

かわいそうに、夕べも、ルミはごはんも食べないで、
『叔父ちゃん、こんなにたくさん泊ったのに』と、
目に涙をいっぱいためて、
小さな両方の手を僕の前に出されると、
僕はルミを抱きしめて泣くしかないのです」

そう言って涙をふこうともなさらない。

次の日、私は仕事の都合で浜に出なかった。

その次の日に浜に出たら、叔父さんに抱かれ、
二人で海をなかめていた。

「ルミちゃん」と言って横に座り、
ルミちゃんの顔を見ておどろいた。

たった一日見なかっただけなのに、
ルミちゃんのくちびるや顔は、かさかさになっていた。

「ルミちゃん、叔父ちゃんに抱っこされていいことネ」
って言うと、

「ルミねえー、赤いウンチが出たの、
だから、叔父ちゃんが抱っこしてくれたの」
と言って叔父さんの胸に頭をくっつけてしまった。

私は体中の血が凍るようだった。

髪の毛が抜け、血便が出るようになれば、
もうルミちゃんは長く生きられないのでは
とおそろしさにふるえた。

急いで家に帰り、
家中を探して、赤い布でリボンを作って浜に走った。

叔父さんに抱かれたルミちゃんは、
目をとじてもう海の方を見てはいなかった。

叔父さんはしっかりルミちゃんを抱いてうなだれていた。

「ルミちゃん、ほうら、おリボン作ってきたよ。
もう一つのリボンは?」
と声をかけると、
しわくちゃになったりボンを私の目の前に出した。

「二つになったネ」って言うと、
目を少しあけて、ニーッと笑った。

ロの中が真っ赤だった。歯茎から血が出たのだ。

「ルミ、ありがとうは?」と叔父さんがおっしゃると、
小さな、小さな声で、「ア・リ・ガ・ト・ウ」
苦しそうに、とぎれとぎれに言った。

叔父さんは、
「ルミ、ルミは叔父ちゃんの宝物だよナ、
叔父ちゃんはルミが大好きだもんな」
とかさかさになったルミちゃんの顔をそーっとなで、
いとおしんでいらっしゃった。

それから二日後、ルミちゃんは叔父さんに抱かれ、
浜に出てお船を待ちながら、天国に召されて行った。

(中略)

1人寂しく暮らされていた叔父さんは、
いつ、どこへ行ったのか、誰も知らなかった。

それから半年くらいあとだったか、
叔父さんも亡くなられたらしい、と耳にした。
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こんな酷(むご)いことがあっていいものでしょうか。
しばらく、
「一つだけ泊ったら帰って来るって言ったのに」
というルミちゃんの声が耳について離れませんでした。

ルミちゃんと私の4歳の孫娘とが重なってくるのです。

ルミちゃんは
天国ですぐにお父さん、お母さんに会えたのでしょうか。
会えたとすれば、
この世に一人でいるより幸せだったでしょうね。

この本にはルミちゃんの話以外に
以下のような痛ましい子供たちが描かれています。

被曝して倒れた家の下敷きになって死んでいるお母さんの近くで
「お母さん、お母さん」と泣いている子供を助けて、
お母さんのところへ持って行ってあげると、
死んだお母さんの手を握って自分も死んでしまった3歳の坊や。

家族と別れ別れになって小さな女の子が
1人でとぼとぼ歩いている。
声をかけると「連れてって、連れてって」と言うので
叔父の家まで連れて帰って治療もしてあげた。
4歳だった。
でもその日のうちに、
「お兄ちゃん、お兄ちゃん待って!」と言いながら死んでしまった。

自分がもう動けないくらいの重傷なのに、
ただ一人の家族母親に、死ぬ間際まで
「お母さん、今日も学校に行けないから欠席届を出して」
と言った8歳の少年。
その後、そのお母さんもどこかに消えてしまった。

この本には
全部で13の悲惨な出来事が記述されています。

原爆で死んだ人は、次の3種になるそうです。
1.熱による火傷
  爆心地ではこれで助かった人はいないでしょう。
2.爆風による倒壊物の下敷き
3.放射能被害
  前掲ルミちゃんのように、
  被爆していなくても高放射能状態の時にそこに近寄った人も
  「原爆症」になっています。
  奥田さんのように8日間もまさに高放射能状態の場所に入っていても
  何でもない人もいるのですから、不思議です。

こういうことを知ると、
いかに今が幸せかを思い知らされます。

また、つくづく人の運というものを感じます。

たまたま、広島市を離れていて難を逃れた奥田さんの甥と姪
たまたま、広島に出かけて難に遭ったルミちゃんの両親
8日間爆心地近くを徘徊していても原爆症にならなかった奥田さん
3日間市内を探し回っただけで原爆症になってしまったルミちゃん

運命なのでしょうか。

広島では、原爆直後の死亡者だけで20万人以上です。
それだけの人生があったのです。
原爆はその生を一瞬にして奪ったのです。


とんでもないことです!!
残虐非道です。

やくざだって人の道(仁義)を弁えて堅気には手を出しません。

戦争の仁義だってあったのです。

1899年万国平和会議で採択され、1907年に改訂された
ハーグ陸戦条約25条では、こう言っています。
 
 防守されていない都市、集落、住宅または建物は、
 いかなる手段によってもこれを攻撃または砲撃することはできない。

米国も日本もロシアもこの条約に調印しています。

この条約の強制力がどこまであるかは別として
倫理的には民間人への攻撃は不可という認識はあったのです。
人倫に反するということでしょう。

陸戦でなく空からの攻撃の場合は、
戦闘基地を攻撃する際に
誤って
近隣の民間人に被害を及ぼす可能性はあるかもしれませんから
完全な徹底は難しいでしょう。

しかしながら、大戦末期の日常的な「空襲」は
明らかに都市全体を攻撃しており、条約の人倫に反しています。

それとの比較で言えば50歩100歩だと言うのかもしれませんが、
原爆は、単なる空襲とは異質です。
逃げる暇を与えませんから。

言語道断でしょう!!

戦後日本の「戦争犯罪人」が裁かれましたが、
最大の戦争犯罪人はアメリカの最高責任者です。

なぜ、世界はその犯罪を容認したのでしょうか。

それだけ日本という国は世界から見て、
異質・異端・脅威・人間外だったのでしょうか。

戦後日本は、米国を頼りにしていますが
恩にきる必要はないと思います。
日本のために、日本を守る、あるいは日本を助ける気など
毛頭あるわけがないのです。

アメリカを守るために日本が必要だから、
日本を守る、助ける、をしているだけです。
それは当然なのです。

誰が自国以上に他国のことを構うものですか!
そのことはきちんと認識しておいた方がよいでしょう。

因みに、
「家族という病」なんて言っている下重暁子さんに
こういう家族愛を知っていただきたいですね。

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8月6日追記

本日8時から広島で70年めの追悼記念式典が行われました。

松井市長の追悼メッセージはコンパクトでありながら
心のこもった素晴らしい内容でした。
スピーチも上手でした。

その中で、NHKの字幕としゃべられた内容が違う言葉が
一つだけありました。

それは、原爆投下の非人道性を訴えたところです。
松井市長は「非人道」と言われました。
当ブログのタイトルと同じです。
同じ心です。

しかし、字幕は「非人道的」となっていました。
一般的は言葉としては非人道的」でしょう。
しかし原爆投下は、「的」ではなく、非人道そのものなのです。

NHKは松井市長の心が分かっていませんね!!






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